昭和52年11月06日 朝の御理解
御理解 第87節
「腹は借り物というが、借り物ではない。万代の宝じゃ。懐妊の時は、神の氏子がわが胎内におると思うて大切にせよ。」
たしかに「万代の宝」ですね。子供が胎内に恵まれる。そして十月十日、日が満ちて参りますとこの世に生を受ける。その子供がまた成長して次の、と次々と産みなしていく働きというものがあると言う事ですから、確かに万代までのいわゆる宝だと。ですから本当に宝を宝と顕わしめるために、いよいよ最近医学ですか、精神医学と言うですかやはり申します。いわゆる胎教ですね。
お母さんの心がけが良いと、良い子が生まれるとこう。もうお腹の中に宿ってからでもそうである、綺麗な人の写真ばっかり見ていると、大変綺麗な可愛らしい子供が生まれるという。心を清らかに清らかにと、努めさしてもらうと子供がやっぱり清らかな、素直な子供が生まれると。ですから成程そのいついつまでも、子供がまた成長する。そして又子供が出来る。そしてまた成長する。
もういついつまでものそういう意味のことをでしょうね。「万代までも宝だ」と言う風に教祖様は仰っておられる。そこでよりよいおかげを産みなされてくる事の為に、もちろん両親の心掛け、それに胎教と言う事になるわけですが、ですからあのう「心一つですべてを創る」と言う事にもあると思うです。いよいよ宝をたからしめるために、心次第で良い子を恵まれる。限り無くしかも頂いていけると言う所に「万代までも」とこう言う事になるのでしょう。
昨日今随分の時間を懸けて、青年会の方達でどんなもん作るじゃろかと私は思うて、もう前からその毎晩遅くまでやってますけども、どんな言が出来よんのかと思ったら、合楽、合楽何かな、合楽辞典か、合楽辞典というもの。それで二十数年前からずうっと私の御理解の中に様々な、合楽の者でなかなければ分からない、言うなら言葉使いというのも沢山出て来る訳。だからその例えば銘々が信心させて頂いておって、神様にいろんなお知らせを頂いたり御神夢を頂いたり、致しましてもその意味が分からない。
親先生が居りなさる間は、まあお伺いすれば分かるけれども、後になったら分からんから、まあそういういろんなお知らせを頂いた時には、自分でも分かるように、それを辞典にしてね残しておこうという、まあ企画の下に青年会でそれを思い立っておられます。堂言う風な事が出来ておるか私は知りませんでしたけど、昨日椛目の池尻が参りましてから、拾い出して沢山こうしとりますけども、意味が分からないのが沢山あるという。それで改めて頂きたい。
私が見るともうばぁっと何十年前に頂いとっても意味が分かるわけですね。こう言う事はこう言う事て。例えばかぼちゃのお知らせを頂いたら、あの馬鹿になっていけ、大きくなっていけと、もう馬鹿と阿呆で行けと仰るんだから、はあもう本当にどうにもこたえんと言うような時でもです、ならかぼちゃを頂くとね。はあ神様が「辛抱せえ」と仰っておるのだから、と言う様なものじゃないでしょうか。おかげでスキッとするのが不思議ですね。お知らせを頂く。
どうでも辛抱が出来ない時に、あの蔓忍ぶなんかをこう頂きますとね、神様が「忍べ」と仰っておられるのだから忍びよいね、神様が見ておって下さるんだから、聞いておって下さる。ひまわりの花、これはもう何処までも、言うならばその「味苦魅楽」でありましてね、いわゆる苦しみの中に味わいを分からしてもらい。楽な事に魅せられてはならない。言うならばひまわりの花のお知らせは、とにかく暑い方へ向かう。
太陽に向かって咲いていくっていう、あれは花ですからもう日陰のもんども、楽なもんどもというのじゃなくて、暑い方へ暑い方へとこう、やはり苦労の味わいというものを分かっていく。西瓜のお知らせを、水火の行というじゃないかとね、水火の行も辞せんというような、だから大変激しい修行が始まってくる時には、西瓜のお知らせを頂く。と神様があのこれを水火の行として、火の行水の行として受けて下さるんだと思うと、その修行が楽しゅうなって有難なってくる。
いろいろございましたがね。それをもう私は分かってるからすぐ答えが出てくるわけ、だからこれは一遍私が、皆さんで、それこそ何十年前の事を拾い出してずうっと、これなら随分時間がかかることだなあと私は思いました。ですから一遍私が覚えておるだけでもずうっと一遍お話をして上げてね、そしてそしたら又新たな、もちろん只その辞典で答えが出てくるというだけでは面白みがない。
やっぱり今も言うように、そのそん時そん時の御理解がそれについて初めて、言うなら辞典というだけに利用するのじゃなくて、読んでもおかげが頂ける。読んでも楽しいというような本にしなければいけないなあと、私は思うてね。その事を思うたら、もう昨夜休ませ手頂くのは二時ぐらいでしたけども、一時間半丁度一時間半その事ばっかりを、こう思うたら、いろんな事がずうっと思い出さしてもらいましてね。
はあこういうのを残しておくと言う事は、こりゃしかし楽しい事だなと、そして又あの皆の本当に、辞典になるなと言う風に、だから辞典という、堅苦しいものではなくて、それを読んだら御理解にもなる。いわゆる御教えにもなる。と言う風にそれを説明しておかなければいけないな、と言う様な事を感じたんです。皆さんもそして私は、思うんですけれどもね、皆さんが分かっておるようであって、実は分かっておらん人が、たくさんあると言う事です。
まあいうならば合楽の頭脳という人達が集まって、一つのまあいわゆる辞典の作成にかかってるわけですけども、あんた達はこんくらいの事も知っとらんじゃったの、というような事がたくさん出てくるわけです。ですからねえ、やっぱり判っとろうとして、判っとらんけん、もう一遍頂かなければならん、やはり辞典でも作って読み直さしてもろうたら、成程と合点が行く、もう日常生活の上に、もう茶飯事の中に、様々な神様のお知らせとも思われる、これは御神夢とかお知らせでなくてもです。
一つの合楽で言う一つのリズムと言った様なものが分かってくると。昨日でした、井上先生が、今日は不思議にその、お茶のみ茶わんを二つ頂いたちゅう訳です。一つは九谷焼きの茶のみ茶わん、一つは今あの田主丸の上に窯が出来ております、楽生、楽が生まれるというその焼き物のお茶わんを二つ頂いたが、神様はどういう御神意だろうかと、例えば、頂いたものに対してでも、御神意が必ずあるのです。
けれどもそりや、やっぱり本当に、確かに、御神意があることだろうなあと、言わば九谷というのは、どんなに考えても、楽なことじゃなかろうとある。やはり九というのは、十の一歩手前でありね、しかもその谷間でありね、けれども次にその楽生、楽が生まれるという、だから、ここの所をもう一つ、一息頑張らせて頂くと、そこから生まれてくるのが、楽生じゃなかろうかねというふうにですね。
そこに的確なその神の声とも思われる様な、自分の周辺に集まってくるその事柄でも、ここでは、漢字を私達は頂きましてね、最近頂く頂いたのなんかは「薫」という字をね、草冠に重んずる、重いと書いて心と書いたら、自然を重んずる心ここに芳しいまでの、薫り輝くようなおかげになると言う事は、もう自然の働きをもう本当に重んじる頂き方、重んじると言う事は、尊んで頂く頂き方を、続けて行くならば必ず言わば、信心の薫りがね、それこそあの薫るようなおかげにもなっていくというわけです。
寛大の寛という字なんかも、あれをそうします合楽の信心の真意に触れて行く訳です。人間の幸せというのは、いうならば幸せという字を書いてみなさい、それを上から見ても下から見ても幸せと読めるでしょうが、そうしてみると自分の都合のよい事だけが有難いのではない、都合の反対になった事でもやはり有難いという頂きとめ方ね、反対にしてもやっぱしそういう心が開けたときに、人間は本当の幸せと言えれるんだと。
金があって物があって、そして家庭が円満であって、ともう人間の最高の幸せに恵まれておっても、それを幸せを感じきらない人がある。それはお金は、家は十分あるばってん、こんなことがと言うて、不平不足の所がこう出てくる。だから全ての所に神意であるとか、神愛であると、判り悟らせてもろうて行く所に、人間の幸せというものがあるんだと、上から見ても幸せ下から読んでも幸せと、と言う様な調子なんですね。
もうそういうなんか拾うなら、もう沢山あると思うんです。こりゃもう私も覚えとらんです。漢字、分解しながら御理解を頂くというね、「松」の字を頂いたら木へんに、公と書いてあるから、これは「松」という信心は九州の信心と言われる位だから、大事にせなければならんが、どう言う風に大事にしなければならんかというと、木を公のことに使えと、木は心心をね今あなた達が願っておる、本当に自分自身一家の事ばかりを願いよるんじゃなくて、一つね自分の周辺の村中のことを祈ってみれ。
町中の事を祈ってみれ、教会全体の言うならば繁栄を祈ってみれと、一段ずつなら松の信心でいったら信心が大きくなっていくよと言う様な訳ですよね。その中に「梅の香りを桜に持たせしだれ柳に咲かせたい」これはまあ合楽の一つの理想像とさえ私は思うです。「梅と」いうのは信心辛抱梅のお知らせを頂いたら信心辛抱、まあ今はこの寒中にずうと辛抱しとかんならんとじゃから、けれどもその言うならば春に先駆けて咲く花であり、そしてあれが七部咲八部咲ともなる頃になると頼まんでも、鴬が来てとまってね。
ホーホケキョをさえずるようになるよと。そしてそれが散っても、それは梅の実となり、それは梅干しともなっていく、言わばお徳になって行く。いつまで置いても悪くならん、病人に食べさしても障らんという程しの梅干しになるまでが信心辛抱だよというわけなんです。「梅の香りを桜に持たせ」言うならば合楽のおかげというものは実に華やかだとこう皆が言う。確かに華やかである。
さあ記念祭ともなるとそれこそあのアドバル-ンが、七本もこう上がってね「はあ合楽は何事じゃろうか」と皆が言う位にまあ華やかな事、お供え一つをみても実に華やかである。私が華やか好きだから華やかにしよう、華やかなお供えしよる誰も言わんでも、自ずとそうなってくる。それには桜の花の信心いうならば華やかだけれども、それには桜の花のようなあの散りぎわね言うなら潔い。潔い言うなら信心度胸を作って潔い信心からしか華やかなおかげは生まれてこない。又は柳というのは風に逆らわない。
だからどんな時であっても、風に逆らわないで風任せになっておるから、折れんで済む。それをまあ素直な心、神様が「右向け」とおっしゃれば「はい」「左向け」とおっしゃれば左を向いていく、そういう生き方にならせて頂くと実に楽である。折れるような大きな風が吹いてきても、折れんですむ所のおかげが頂かれる。だからそういう梅の信心、桜の信心又は柳の信心と言った様なものが、一つになって、渾然とした信心を私は合楽の信心だと思う。
最近なんかはお礼の信心、お詫びの信心と言うてきた、それに最近は願いの信心を以て最高とするんだと言う様な、今までお詫びとかお礼とかの信心の、信心を踏んまえて、願いの信心に立たせて頂いたら、もうこれはもう大変な素晴らしいおかげになるだろうと今私は思うておる。これは今私お話ししながらちよっと思いだしたですけれども、昨夜遅く御祈念さして頂く時に頂いたんですけれども、田植えをしよる所を頂いた。
そしてズーッとこう下って、五人なら五人で田植えをするでしょう、その反対の方から一人こうやって植えてきよるとがおる。というお知らせでした。どう言う事じゃろうかと思うたらです。例えばここでは傘のお知らせを頂いたら、安心だとこう言われる。そして必ず開かれるおかげだとこう頂いている。ところがねそういうそんなら安心のおかげを段々、だから傘を頂いておると言う事は安心だと。さあ雲行きが悪なってきても傘持ってるから大丈夫、降ってきても濡れんで済む。
傘を持たないからちょっと曇ってくると、さあ濡れたりせんじゃろかと言うて慌てんならん。傘を持たんから不安でたまらん。だから不安でたまらん、心配でたまらんという時には、信心で頂くところの、安心のおかげを頂いておらん証拠と思うて、安心を頂けれる信心を頂かなきゃいけん。だから傘持っとけば、濡れんですむんだけれども、あのそういう事だけではどうにも出来ない事があると。
昨日の御理解じゃないけれども、両本の手ば使わんなんごたる時がある。そげん時にはです、もう傘もかなぐり捨てて、言うなら蓑傘着けて、田植えの時なんかはですね。田植えというのは、それこそ今日の御理解じゃないけれども、よい種をおろして、それが十月十日が人間が生まれてくるならば、そんならあれは、田植えは五月ですかね、五月から十月なら、十月の収穫の時まではやっぱり辛抱せんならん。そのためにはあれが米になるまでには、八十八回もの手が要る。
「米」という字のお知らせを頂いたら、言うならばこれは大変おかげが頂かれる。ですけれども、やはり八十八回の手は要るよと。植えた放からかしじゃいかん。かたの草も取らなきゃならん。肥料も与えんならん。時には暑い炎天に出て、たまげもせんならん。今時は違いますけれどもね、昔の時はそうでした。そして田植え時には必ず、お湿りは付き物ですからやはり蓑傘着けて、ですからもうとにかく濡れることはもう覚悟の上なんです。そこにき潔い信心がいるわけです。
もういよいよ降ってきた。傘だけでも出来ん時には傘もかなぐり捨ててです。もう濡れかんまんという気になると、もうそれこそそれが八十八回の中の一回だというふうに思うたら、もう楽して有難しで濡れながら有難くなる。たかの笠をかぶっとる、蓑笠をつけておるから、まあじかには当たらんけども、下はやっぱりじっくりなるわけです。けれどもこれは今、只今田植えしよる時だというふうに思うたらね。有難い。
これは昨日頂いた事ですけども、傘持ってさえおれば、傘持ってさへおればで、傘持っとっても、傘だけではどうにもできん程しの時が必ずある。けれどもそういう時にはそれこそレインコートを着て、言うならば街の雨の歩道をね、それこそスタスタとこう歩いて行く気分も又良と言う事なんです。というのはこれはほんに、昨夜頂いておった事でしたからね。傘もう傘で片一方の手しか使われん。ですから両方の手ば使わんならんごたる時には、という時にはもういよいよはまってね。
言うならば下駄どん履いとんならばね、下駄を脱いで、そして濡れてもかまわないという気持ちで外に出らして、はまって出ると濡れることも又楽しいのであり有難いのであるというわけなんです。こんな御理解を頂いたことを皆さん覚えておられるでしょうか。「桃の花、鯉住む池や、薄濁り」という御理解を頂いた事があったね。この御理解を頂いて、皆よう助かりましたその時分に、あの熊本の吉田先生なんかはもう、これば頂いたとたんに合楽にお参りしごしゅうならなくなったというんですからね、自分の身にぴたっとくることがあったわけです。
「桃の花 鯉住む池や うすにごり」人間がどんなに清まっても清まっても、清まることが信心だけれども、やはりよくよく見てみると薄濁りである。その薄濁りの自覚に立ってです。鯉というものは結局清らかなとこよりか、薄濁りぐらいな池なんかに住みつくんだという意味です。むしろ薄濁りであることの方がお徳が受けよいんだと言う事です。薄濁りの自覚に立たせてもろうて、その中には様々有ります。
桃色と言う事は、これは例えば桃色事件などと言いますね。男女関係のことなんか、そう言う様な事やら、又は青春を謳歌する。そしてその又それの付き物である、恋愛そいう時に頂くお知らせなのです。けれどもそれは決していけないことではないんだ。神様の言うならば、それをおかげ、お恵みとして頂いていく。そういう頂き方の中から、言うならば、何と言うんでしょうかね。お徳の頂けれる手立てが出来てくる。
昨日、私そのことをずうっと思わして頂きよったら、小唄に「梅は咲いたか」という唄が、小唄にあります。「梅は咲いたか桜はまだかいな、柳なよなよ風次第、山ぶきゃ浮気で色ばっかり、しょんがいな」という実に気の効いた歌です。この中にも、梅、桜、柳が入ってますね、最後の所の山ぶきの、「山ぶきゃ浮気で色ばっかり」と言う所がね、ただおかげばっかりでは実が実らないぞと、山ぶきという花は実が実らない。
そのためにはこれもいつか頂いた御理解の中にですね、「山ぶきや 筧で足を洗いおり」という、お知らせを頂いたことがあったですね。「山ぶきや筧で足を洗いおり」山ぶきの花が上からいっぱいこう咲いておる、下には筧でこう、そこをあの山登りなんかした人が、帰りがけにそこで足をきれいに洗っていきよると、こういう情景を句にしたわけですけれども、山ぶきというのは今言うように、おかげを頂いても実にならない、徳にならないと言ったような信心ではつまらんじゃないかと。
お徳を受けるためにはひとつ本気で足を洗えよと言う事なんです。遊び人の方たちが正業にかえる時に、足を洗うというでしょう。だから皆さんが、これだけは改まられんといったようなものをです、それでもおかげを受けておるけども、それではお徳にならん、お徳を受けたいならば、それこそ「山ぶきや、筧で足を洗いおる」という、足を洗ろうて、次の信心に飛躍していかなければいけないよと。
まあ今日はね、私その合楽辞典、こういうような説明を一つ一つのお知らせにつけていったら素晴らしい、興味のある本になるんじゃないだろうかとこう思うんです。同時に、今日の八十七節を、例えば「女が懐妊の時」と言うだけではなくて、おかげが頂けれるという、私は懐妊の印というのは、信心させて頂いておっても、突発的なとか、まあ突発的でなくても難儀が起ってくる。そういう時にはですね、もういよいよお徳が、心の中に宿ったと思うて間違いないです。
ですからそれを如何に信心で頂くか、如何にそれを成り行きとして尊んで有難しと頂いていくかという頂き方が、例えば出来るならばです。その難儀が懐妊した。それが次のお徳の生まれてくる元になるというのです。何処を一つ言うならば、疎かにも出来ない。八十八回の手を惜しんではならない。だから折角そういうお徳の受けられるものが、懐妊のおかげを頂いてもです。そこに不平を言う。不足を言う。精進が重ねられていかないとするならばです。
それが又流産になってしもうて、又次のチャンスを願わなければ、お徳というものはいつも、お徳を受けるチャンスというものはあるもんじゃない。ですからそういう言うならば時には、今言うならば「万代までの宝」と言われるお徳を頂けれるのが、心の中に宿ったと思うてそれを大事にね、それこそ大事に大事に八十八回の手を抜かずにおかげを頂いていく時に、もう九十九もう先には進すまれん。こげな苦しいことに、苦しい事が重なってと言う様な時を、いよいよ大事にして百の満願と言う事になるわけなんだ。
それこそ、梅は咲いたか桜はまだかいな」とね、この辺のところを皆さん、自分で理解できてみて下さい。「柳なよなよ風次第 山ぶきや浮気で色ばっかり」という信心ではね、いつまでも山ぶきの花のそれこそ、まあこうおかげは頂いても、実りにはならないということでございます。今日は八十七節から、ただいま聞いて頂いた様な事を内容として聞いて頂きました。
どうぞ。